レポート紹介 (Priestley et al. 2025)
Understanding present day natural catastrophe risk using large ensembles of weather data
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0.WTWとはどのような会社か(すべて筆者による;1以降はレポートの内容による)
WTW(Willis Towers Watson)は,ロンドンに本社を置き,世界140以上の国・地域で事業を展開する保険ブローカーのグローバル大手のうちの1社である.主な業務は,保険および再保険の仲介,企業リスクの定量化と管理支援,アクチュアリーサービス,資本管理・金融リスク分析など多岐にわたる.自然災害リスクの評価は同社の中核サービスであり,気象災害や極端現象に関する科学的知見を実務に応用するための取り組みが重視されており,気象学者,データサイエンティスト,アクチュアリーが多く在籍し,気候モデル,統計解析,大規模データ処理を用いたリスク分析を得意とする.「自然災害レビュー」を定期的に公開したりもしている(しかも日本語対応).このような背景から,レポート文章には「科学的に正確でありつつ,ビジネスの意思決定者にも即座に意味が伝わる」ような文体が採用されることが期待される.
日本語対応のレビューを公開している背景には,WTWが(おそらく)日本を成長市場とみなしていることが関係しているように思われる.WTWは昨年10月に保険仲介サービスを提供する新たな日本法人を立ち上げ,商業リスク保険や再保険斡旋の日本企業への提供を本格的に開始した.今年に入って日本市場向けに専門性の高い人材を多数採用するなど,体制を明確に強化している。特に Risk & Analytics や大型アカウント対応,マリン(海運)などの専門ラインも強化対象だとしている。日本は地震・台風・豪雨・洪水など自然災害のリスクが高い国であるため,企業・自治体における災害リスク管理の必要性は増している.このような背景から,「データ分析 × コンサルティング × 保険設計」というパッケージにより,日本市場で存在感を高めようとしているのだろう.災害・気候変動リスクの分析には,高度な気象データ分析や再保険の知見が必要であるため,専門性を持つ国際ブローカーは,多国籍展開企業,海運・物流企業,資産・インフラ事業者などの日本企業にとって,今後重要な役割を果たすことが予想される.
1.なぜ“過去の観測記録だけ”では不十分か
自然災害のリスク評価では,伝統的に「過去の観測記録」が参照されてきた.しかし,観測された出来事は,地球の気候システムが取りうる可能性のほんの一部にすぎない.大気や海洋の状態は変動が大きく,わずかな初期条件の違いで,台風・暴風・低気圧の経路や強度が大きく変わる可能性がある.つまり,観測史は数十年から百年程度のごく限られたサンプルにすぎず,「過去に起きなかったから起きない」という保証にはならない.実際,ヨーロッパにおいても「保険支払いが数十億ユーロにおよぶ風暴被害」は過去に起きているが,それでも「起こりうる最悪級のイベント」の全体像を示すには限界があると指摘される.
このように,観測記録だけでは“テールリスク(極端事象リスク)”を過小評価する危険性がある.(再)保険業界が長期再現期間におけるヨーロッパの真の暴風のリスクをより深く理解するためには,有効な歴史的記録を現在の約50年よりもさらに拡張する必要があり,それには気象シミュレーションの巨大アンサンブルが有効である.
2.巨大アンサンブル(Large-ensemble)とは何か
そこでレポートが用いた手法が,巨大アンサンブル気象シミュレーションである.これは,物理ベースの気象モデルを複数回,異なる初期条件で動かすことで,「現在の気候状態が許すあらゆる可能性」を再現的に探る方法である.具体的には,数十〜数百のメンバーからなるアンサンブルを月ごとに開始し,6〜7か月の予報を積み重ねるという手順を多く繰り返すことで,多数の「現実らしい」気象イベントのサンプルを得ることができる.
この方法の利点は,単なる統計的外挿ではなく,「物理的に整合性をもつ」気象現象を多数生成できる点にある.そのため,1000年に一度級の極端イベントも含めたリスク分析が可能になる.さらに,嵐や熱波,大雨など複数のハザードがどのような条件下で発生しうるかを,因果関係やそれらの駆動メカニズムも含めて検討できる.
3.主な知見 — 観測記録の限界を超える極端事象の可能性
レポートでは,1200年分に相当するアンサンブルを使った結果として,以下のような知見を得ている.
- 最大風速の上限が過去観測を超える:シミュレーション上の最大の陸上の突風(gust)は 116mph に達し,これは歴史上記録された最大値(105mph)より大きい.この差は,米国ハリケーンのカテゴリー2からカテゴリー3に相当する強度の暴風に匹敵する.
- 中心気圧が非常に低い低気圧の出現:最低気圧が 920hPa 以下となるような深い低気圧がシミュレーションに現れた.これは,これまで英国やアイルランド付近で観測されたことのない強さであり,極端な嵐・低気圧が「理論的に起こりうる」ことを示す.
- 既存の「長期再現期間(return period)」評価の不確実性を低減:たとえば 1-in-100 年や 1-in-200 年とされる風速・低気圧評価において,サンプル数が増えることで統計的不確実性が大幅に減少し,より信頼性のある損害見積りが可能となる.
これらの結果は,過去観測記録に依存した従来の保険・再保険モデルが,潜在的なテールリスクを過小評価していた可能性を強く示す.
4.意義 — 保険・資本管理,防災・適応政策への応用
このレポートの成果は,保険業界や再保険,資本管理の分野にとって大きな意味をもつ.具体的には以下のような応用が考えられる.
- モデルのテール部分をストレステストし,現在の保険・再保険プログラムが想定する最大リスクを再検証する.
- 長期再現期間(100年,200年,あるいはそれ以上)に備えた資本計画や保険料設定を見直す.
- 地理的なリスク集中(ある地域で複数の資産が同時に被災する可能性)や,過去に例のない極端な気象イベントへの備えを強化する.
- 政策立案者や都市計画者に対して,「過去に起きなかったから安全」という前提を見直すよう促す根拠を提供する.
こうした使われ方を通じて,本報告は単なる気象学の研究ではなく,「科学の知見を実務と政策に結びつける実装型の研究成果」であることが分かる.
5.学術論文との違い ― レポート特有の文体と構成
WTW のレポートは,あくまで保険・リスク管理の実務ニーズに応える文書であるため,学術論文とは異なる文体・構成上の特徴を持つ.
結論や価値を先に提示する構成学術論文では IMRAD(Introduction, Methods, Results, and Discussion)に沿い,まず問題提起や方法の詳細を示した後に結果や結論を述べることが多いが,本レポートは,冒頭で「過去観測を超えるような極端イベントも起こりうる」という知見をまず提示する.
“Despite these high impact and often devastating events, it is likely that even more intense, more damaging, and consequential events are possible – even under the conditions of the present day and historical climates.”この表現は,読者に直感的に「備えるべきリスクがある」と伝える意図がある.
学術論文では,読者に意思決定を促すニュアンスは薄く,科学的解釈の提示に重点が置かれ,根拠や不確実性を示す補足を伴うことが多い.
例:“Our ensemble simulations suggest that the tail of the hazard distribution may extend beyond what has been historically observed, implying that estimates based solely on observations could underestimate extreme event risk.”実務応用を意識した表現
本レポートは,読者が保険業界関係者であることを踏まえ,数値結果の提示に加えて具体的な応用も示す.
“Large ensembles of weather simulations allow us to do this.”学術論文であれば,直接的な実務提案は控えられる.代わりに,得られたデータの科学的意義や統計的不確実性,モデルの制約などを議論する.
“Strongest land gusts reach 116 mph in the 1,200‑year ensemble – around 11 mph higher than the strongest observed event (105 mph).”
例:“These simulations indicate that extreme wind gusts may exceed historically observed maxima. The results provide a basis for further assessment of hazard distribution tails.”読者に理解させるための平易な言葉遣い
本レポートでは,「過去の観測だけではリスクが過小評価される」といった,問題点を直感的に伝える表現が多い.
“Even under the conditions of the present day and historical climates, more intense, more damaging, and consequential events are possible.”学術論文では,より中立的で定量的な表現が用いられることが多く,直感的な強調は控えられる傾向がある(雑誌や著者にもかなり依存するだろうが).
例:“The simulations extend the effective observational record and suggest that event magnitudes exceeding historical records cannot be ruled out.”数値と図表の提示方法
本レポートでは,読者が意思決定に使いやすいように,極端事象の具体的な値を示す.
“Strongest land gusts reach 116 mph …”学術論文では,数値提示に加え,統計的不確実性(信頼区間やサンプル数)やモデル前提の説明を伴うのが基本である.
例:“The maximum gusts in the 1200‑year ensemble simulations reached 116 mph, exceeding the observed maximum of 105 mph. Confidence intervals were estimated using …”本レポートは比較的断定的で,意思決定やリスク管理に直接繋げる文調を持つ.例えば
“It is likely that even more intense, more damaging, and consequential events are possible – even under the conditions of the present day and historical climates.”この表現は、極端事象の可能性を強調し、読者(保険業界やリスク管理者)に「備えるべきリスクがある」と直感的に伝える意図がある.
一方、学術論文では,伝統的により慎重な文体が用いられてきた(最近は変わってきている部分もあるが).
例:“The ensemble simulations suggest that the tail of the hazard distribution may extend beyond historically observed extremes, implying that reliance solely on observational records could underestimate extreme event risk.”この書き方では,不確実性を示す表現を使い,結論を断定せずに科学的証拠の範囲内での推測であることを明示している.また,直接的な意思決定や警告は避け,読者にデータと解釈を提供する形になっている.
このように,学術論文と比べ,本レポートは実務に直結する断定的文調を特徴としていることがわかる.
このように,本レポートは「気象学 × 実務 × リスク管理」の境界領域に立ち,科学性と実用性の両立を試みた文書であるといえる.「科学的知見の実務への応用」を第一義として設計する上で,具体的には,学術論文に比べて以下の点を優先している.
- 読み手が即座に価値を理解できる結論の先出し
- 直感的かつ実務に直結する語彙と具体例
- 意思決定者に向けた具体的行動提案
- 図表を使った直感的理解の重視
- 断定的な文調でリスクへの注意を喚起
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プレスリリースなどをする際に,どういう文章であれば,科学的正しさを犠牲にしすぎることなく,実用性の観点からも有用で,効果的なリリースとなるか,ということを考える上で参考になりそうである.もちろん,日本語リリースの場合はまた別の基準で考える必要がある部分も出てくる.

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